ベアトリーチェ・ラナ (c)大窪道治

★メセナライターレポートはartscape, ネットTAMからもお読み頂けます。

印刷・製本のまちとしても知られる小石川。そこにあるトッパンホールでJ.S.バッハ《ゴルトベルク変奏曲》を聴いた。演奏は、欧州で高い評価を得ている新進気鋭のピアニスト、ベアトリーチェ・ラナである。同曲はバッハ晩年の作品であり、最初に演奏される主題(アリア)を三十の変奏で聴かせ、最後に再びアリアを聴かせる魔法のような一曲。ガーネットを思わせる深紅のドレスを纏ったラナは、静けさの中、主題を演奏し始めた。彼女の呼吸すら伝わってくるようだ。変奏では一転して、一つひとつ、異なった物語が色鮮やかに紡がれていった。躍動感の中にも流麗な水の流れを感じさせた第5変奏、ジーグ(舞曲)のリズムに茶目っ気のあるトリルを施した第7変奏、輝かしい希望が込められた第30変奏。そして、長い旅路を経た後でのアリア…。優雅で優しく奏でられたエピローグを聴きながら、楽器としてのピアノの持ち味が生かされた演奏を噛みしめた。偉大なピアニスト、グレン・グールドが「ボードレールの恋人たちのように、“気ままな風の翼にそっと休らっている”音楽」と評した《ゴルトベルク変奏曲》を、ラナは瑞々しいまでの音と響きの深さで表現した。最後の一音が消え、一瞬の沈黙が会場に余韻を運ぶ。都会の喧騒を忘れさせる贅沢な一夜となった。

20170427_toppanhall (3)★.JPG

トッパンホールがオープンしたのは2000年のことである。凸版印刷株式会社が小石川の工場跡地に新社屋を建設する際、創業100周年事業として印刷博物館と共に設けた。印刷を核に情報や暮らし、文化との結びつきを深めながら事業を展開してきた同社と、奏でられた次の瞬間には消え去ってしまう音楽との繋がりはどこにあるのだろうか?トッパンホール取締役でほとんどの企画を手掛けてきたキーパーソン、西巻正史氏は次のように語ってくれた。「ルネサンス期になされた三大発明の一つに活版印刷があります。楽譜が印刷され、西洋のクラシック音楽が世界中に届くようになったのです」。バッハの作品は数多くあるが、実は、彼の生前に印刷された作品はそう多くない。没後100年を経て出版された『旧バッハ全集』などの印刷楽譜が、今日の作曲家バッハの人気の礎となっている。印刷楽譜によって、音楽は世代を超え、海を越えて我々のもとに届いたわけである。「クラシック音楽は西洋生まれですが、日本人であってもドレミファソラシドの音感で育っていますよね。現在、我々が日常で耳にするほとんどの音楽は、西洋音楽の上に成り立っています。ですから、(クラシック音楽を聴くことには)自分たちの音楽のルーツを探るという意義もあるのではないでしょうか」と西巻氏。

g58721_002_museum_print.jpg g58721_003_museum_print.jpg
所蔵:凸版印刷株式会社 印刷博物館 所蔵:凸版印刷株式会社 印刷博物館


TOPPANHALL_024.jpgトッパンホールの魅力の一つは、室内楽に適した造りにある。元々、宮廷や邸宅の一室で演奏された室内楽は、弱音による表現がひとつの醍醐味だが、現代の一般的なホールでは過度ともいえる残響によって繊細なピアニシモの音がかき消されてしまう。一方、ゆったりと造られたトッパンホールの客席に座ると、408席という大きさと適切な音響も相まって、「究極の弱音」や演奏者の息づかいまでもが聴こえてくる。この特別な音響空間を生かした独創的なプログラムもトッパンホールを語る上で欠かせない。開館当初から弦楽器に焦点を当てた公演に力を入れ、「弦のトッパン」との異名をもつなど、音楽関係者の間でも高く評価されている。また、凸版印刷からの手厚い支援のもと、若手演奏家の発掘・育成事業にも力を注いできた。≪ランチタイムコンサート≫と銘打たれた30分のコンサートでは、「伸びしろ」のある演奏家に手を貸すべく、若手に自らの勝負曲や思い入れのある曲を中心としたプログラムを披露する機会を提供している。既に90人近い若手演奏家が、この真剣勝負に挑んできた。シリーズ≪エスポワール≫は、ホールと若手演奏家とが協同して、3年間に3回の演奏会を開催するもので、これもトッパンホールならではの企画。演奏家自身すら気づいていない力や新境地をホールのスタッフと共に探りつつ、若手が音楽家として確固たるポジションを確立できるように、ステップアップを意識したサポートを行っている。

20170427_toppanhall4-3.jpg独創的で意欲的なプログラムの裏には、紋切り型に陥っているコンサートホールの世界に風穴を開けようとする想いが秘められている。西巻氏は「『成熟した大人の愉しみ』を意識して、企画を練ってきた」と語る。曰く「敷居は下げず、頂きは高く上げる」戦略である。その意識は、トッパンホールのセット券にも色濃く反映されている。ピアノ、古楽、コンテンポラリー、弦楽器といったジャンルに縛られない横断的なセットとなっており、ホールが新しい音楽と出逢う機会を提供してくれる。こうした積み重ねが、着実にホールのファンを増やしてきた。「トッパンホールに行くと面白いものがある」と言われるようになり、今では「クラシック界の隠れ家的レストラン(思わぬおいしいものに出会う場所)」として愛されている。西巻氏は「キーワードは『汗をかくこと』だ」と続けた。徹底的なリサーチで魅力的な演奏家を招へいするだけではない。「こうしたことをやりたいと思っていませんか?」と次のステップも見据えた提案まで行う。「演奏家に本気になってもらうためには、まず、我々が汗をかかなくては。そして、演奏家にも汗をかいてもらう。公演当日は、お客様にも手に汗を握ってもらいます。そのためには、演奏家と一緒に呼吸し、一緒にコンサートを作ることが必要」と語る彼はリハーサルから本番まで伴走する。こうした付き合いが、演奏家との深い信頼関係につながることは言うまでもない。

多彩な企画の中でも個人的なオススメは、高い音楽性のみならず、文学性をも兼ね備えた歌曲を紹介する≪歌曲(リート)の森~詩と音楽~≫。実は、内外を問わず、この10年で歌曲を聴く機会はすっかり減った。印刷・出版業を牽引してきた凸版印刷のメセナ活動は、音楽と文学の結晶ともいうべき歌曲の復権を目指している。トッパンホールを訪れた歌手から、本場ドイツやイギリス・ロンドンのウィグモアホールよりも優れたプログラムが提供されているとの声も聞かれるようになっており、質の高さは折り紙つき。有島武郎や中江兆民、佐々木喜善といった時代を先駆けた文筆家ゆかりの土地で、ぜひ世界最高水準の歌曲も楽しんでいただきたい。

トッパンホール内観-1.jpg

2017年4月25日訪問

ページのトップへ戻る